2022-02-27 #67 Maunaloa by Helen Parker
本日カバーしたハワイアン。
ヘレン・パーカーによる"Maunaloa"もしくは"Mauna Loa"。詳しい初公開日や作曲日は不明。
この歌は、多くの人が信じているような山や船のことではなく、終わってしまった恋の歌です。
こちらの動画を参考にしました。素晴らしい演奏
ピータームーンもカバーしてますね
ヘレン・パーカーについて
ヘレン・パーカーは、サム・パーカー大佐とマウイの酋長一族の子孫にあたる。パーカー大佐は当時ハワイでは高名なパーカー牧場の持ち主、19世紀に世界一の真の紳士と言われた人物で、パーカー家はとても優雅な一族だったとのこと。
ワイメアのパーカー家のホスピタリティは有名でした。彼らは、ハワイの王室にも匹敵するような壮大な生活を送っていたのです。ハワイでは、もうこのような人たちを見ることはないだろう。
カラカウア王朝の君主時代、ハワイ臨時政府、ハワイ共和国、そして準州の初期において、パーカー夫妻は島社会の絶対的なリーダーであった。その豪華絢爛な暮らしぶりは、今もなお比類なきものだ。
The Story of Maui Royalty Col. Sam Parker's Wife Descendant of Chieftess
ヘレン・パーカーのAkaka Fallsという曲も多くの方がカバーしとります。以下はレジェンド Sol Hoopiiのカバー。
2022-02-20 #66 Lei Poni Moi by William Joseph Coelho
本日カバーした曲
William Joseph Coelho作曲のLei Poni Moi。1913年に録音された実績があるが、いつ作曲されたかは不明。
ウィリアム・ジョセフ・コエーリョ
ハワイの音楽家、作曲家、後に準州議会議員(1870年1月1日ハワイ州マウイ島ワイカプ生まれ - 1924年11月12日ハワイ州オアフ島ホノルルで死去)セントルイス・カレッジを卒業したコエーリョは、ジョン・H・ウィルソン市長が管理するハワイの音楽家の大グループの一員として、1901年にニューヨーク州バッファローのパンアメリカン博覧会で16週間にわたり演奏しました。その後、ハワイ王室の4つの協会の一つであるハレ・オナ・アリイ・オ・ハワイ(1918年設立)の記録係となり、ハワイ州議会で代表を2回、マウイ島出身の上院議員を1回務めた。交通事故により死去。
Lei Poni Moi" (カーネーションの花輪<), "Kilakila O Haleakala" (壮大なハレアカラ山), "Roselani" を作曲した。
YouTubeなど検索したところ、この当時の録音物以外のカバーが見当たらない。もしかしたら今回自分が行ったカバーは110年ぶりのカバーかもしれない。
歌ものバージョンしかないため、歌もののメロディーをそのままなぞったらちょっと間抜けな感じになってしまった。
2022-02-13 #65 "Lei No Ka'iulani" by J. Edward (1916)
本日カバーした曲
J. Edwardによる"Lei No Ka'iulani"。1916年作曲?
カイウラニ王女のために作曲された。プクイさんの説明によると、アリクイにレイを贈るとき、通常は歌やチャントを添えて、これもレイと呼んでいたそうです。花のレイは枯れてしまいますが、詠唱や歌はアリʻイの思い出として生き続けるのです。レイはアリクイに贈られましたが、儀礼上、贈った人がそれをアリイにかけることは許されませんでした。アリイは自分で飾るか、侍女に首にかけてもらうことがあります。侍女は決してアリイの頭から手を出してはいけません。
スチールギターでもたくさんカバーされているため、大変勉強になりました。
2022-02-06 #64 "Malanaʻi Anu Ka Makani" by M. Kealoha
本日カバーした曲
M. Kealohaによる"Malanaʻi Anu Ka Makani" 。
リロア酋長が運んだワイピʻオ渓谷の岩は、ハワイでは「リロアの聖なる台」として知られている。
カバーは結構古いものしか見当たらない。以下はスチールギターでのカバー。参考にしたのもこちら
本来は当然歌があります。
霧のような雨を見る
静かに木々の間をすり抜けていく
霧は高いところに落ち着く
鳥が水を飲みに来るところ
冷たい風はMalanaʻi
それはとても柔らかくここに漂っている
優しい波紋が広がる
池のほとりにて私への願い
花々の甘い息吹のために
高く育つ
リロアの聖なる壇上で
2022-01-29 #63 Mai Poina ‘Oe Iaʻu by Lizzie Doirin
本日カバーした曲
Lizzie DoirinのMai Poina ‘Oe Iaʻu です。初公開は1906年のようです。
出典 Leilani Sexton (Lizzie and Alfred Alohikea の孫娘) - Elizabeth Kahau Alohikea は、Lizzie Doirin というペンネームをいくつかの楽曲で使用しています。彼女は叔母の一人であるドイリンに敬意を表してこの名前を使ったのでしょう。このメレは1907年、ハワイアン・ニュース社に初めて掲載された。Ltd.に掲載された。1916, 43 Charles E. King 翻訳:Mary Pukui
スチールギターとギターで旋律を、ヴィブラフォンとウクレレでバッキングを奏でるチルいカバーが参考になりました。これはよき
当然本来は歌ものです。
私が考えているのはあなたです
夕暮れに来る雲よ
そして、あなたが来たとき
この心は安らかである私を忘れないでください。
愛する人、私の心の
あなたの訪問をもっと頻繁にしましょう
愛が新鮮なままであるように、内に
あなたの愛はいつも新鮮です
あなたも同じように感じられますように
私たちの愛がレイのようであるように
季節を越えて
2022-01-22 #62 "Honolulu I'm coming back again“ by Peter Moon
本日カバーした曲。
Peter Moon の"Honolulu I'm coming back again“ 。おそらく1972年が最初のリリース。いつもどおりBPM60でスウィングさせずにスクエアな感じでやったらなんだか物悲しい感じになってしまった…
ピーター・ムーン(1944年8月25日 - 2018年2月17日)は、アメリカのウクレレ、スラックキー・ギター奏者。
1950年代後半から1960年代にかけて、ギャビー・パヒヌイと共にマイレセレネーダーとして演奏し、音楽のインスピレーション、洞察力、知識を得た。1970年代にはギャビーのマネージャーも務める。その後まもなく、ムーンはパラニ・ヴォーン、アルバート・"ベイビー"・カリマ・ジュニアとともにザ・サンデーマノアの創設メンバーとなる。ヴォーンとシリル(パヒヌイ)が脱退した後、ムーンはカリマとシリルの兄、"ブラ"・パヒヌイと共にアルバム『ハワイアン・タイム』をリリース。カリマとパヒヌイが移籍した後、ムーンは唯一のメンバーとして、数歳若いロバートとロランド・カジメロを加入させた。 [1971年、ファーストアルバム『グアヴァ・ジャム』を発表し、ハワイアン・カルチャー・ルネッサンスの火付け役となった。
ピータームーンはモダン・ハワイアンで有名な方ですね。自分はUAさんのラジオ「カピバラ・レストラン」でこの曲の以下バージョンが流れ、それで知りました。誰のバージョンなのか詳細不明。
サンディーさんもカバーしてる
2022-01-15 #61 "Punaluʻu" by George Kealoha Iopa
本日カバーした曲。これは気に入ってます。
George Kealoha Iopaの"Punaluʻu"。1972年リリースのよう。曲の解説。これは良いエピソードだなあ。
真の空想家である作曲家ジョージ・イオパ・シニアは、いつかなくなるかもしれないプナルウとカウの特別な物や地域をシェアするために、この曲を書いた。ハワイ島プナルウの黒い砂浜は、古くからサーフィンが盛んな場所だった。
彼は本の虫で読書が大好きで、家庭での教育はとても重要だった。彼はとても詩的で、自分が見たものや訪れた場所について歌を作るのが好きだった。彼の曲は、ココナッツの木の下や溶岩の上に座っているような、私たちが当たり前だと思っていることに対する愛と感謝の気持ちを表現していた。
C.ブリュワーは1972年、ジョージ&アリス・イオパ名義でこのメレを出版した。このメレは、1973年にオープンしたPunaluʻuの彼らのレストランのテーマソングとして使用された。現在、レストランは閉店している。
自分が参照したのは、Hui Ohanaのバージョン。ベースがたったアレンジがとても素晴らしい。